甲子園浜は何故残ったのか?   表紙に戻る

神戸から尼崎までの海岸がどこもコンクリートの岸壁に変貌したというのに、何故、西宮にだけ砂浜があるのか。

これは実に奇妙なことだ。  昭和46年1月、私が数ヶ月で西宮東高校を卒業という頃、西宮の市政ニュースに


甲子園浜の埋め立て計画が大々的に報じられていた。兵庫県は甲子園浜を含む200ヘクタールをすっぽり埋め

立て、工業用地にする予定だったのだ。その前年は大阪で万国博覧会があり、日本は高度経済成長のムードに

酔っていた。私もその頃は「砂浜がなくなるのか。寂しいけれど、経済発展のためには仕方ないのかな」と思って

いた。甲子園浜もコンクリートの岸壁になる運命だったのだ。  では、何故そうならなかったのか。それは、南甲子



園小学校PTAの反対の声が発端であった。母親たちは市役所をたずね、入手した資料を見て驚いた。資料とは

「阪神湾岸地域開発構想」と「阪神港湾計画平面図」(昭和42年8月港湾審議会)である。この計画では、浜を

埋め立てるだけでなく、小学校のプールの上に湾岸道路と名神高速を結ぶ道路をつけるという内容も含まれてい

た。母親たちは憤慨し、関係機関への陳情、要望、議会への請願、市庁舎への100日におよぶ座り込み、行政

不服審査請求とあらゆる手だてを尽くし、埋め立て反対運動を展開した。しかし、これでも行政は計画を強行実施

しようとした。それで母親達は最後の手段として訴訟にうってでた。2004名の地域住民による訴訟は被告の却下

申し立てという困難な状況の中で、実質審議に入り、ついに市を通じて県との和解交渉に入った。この苦渋の運動

は途中で放棄されなかった。この我慢が成果を勝ちとった。後に甲子園浜は環境庁の鳥獣保護区に指定されたのだ。


■ 真の豊かさとは何か  

さて、この運動はどうしてねばり強く展開できたのか。それは甲子園浜み魅せられた方が大勢いたからだ。甲子

園浜には東から中央部分に干潟や磯を持つ。ここではカニやヤドカリ、ゴカイがびっしりついており、それをねらって

シギ・チドリが毎年群をなし飛来する。中央から西部分には、広大な白砂が存在する。この砂浜には阪神間では殆ど

全滅した海浜植物が今なお分布している。ハマヒルガオ・ハマエンドウ・ツルナ・コウボウシバなどである。  甲子園

浜を守る会のメンバーの1人、東山直美さんはずっと、この自然を見守ってこられた。甲子園浜は箱庭のような自然で

ある。ちょっとしたことで植物は全滅してしまう。テトラポットの撤去作業、歩道の建設、台風、心ない人の行動など、

全滅する要因はたくさんある。東山さんは毎日のように甲子園浜に足を運び、植物の株の一つひとつに目を配り、

愛情を注いで来られた。株を植え替えたり、水をかけたり、自分の庭のような気の使いようだ。  「ここの干潟は戦前

にあった阪神パークの水族館や川西飛行場の滑走路の残骸でできているの。月日がそれを風化させ、自然にもどし

たのね。自然はたくましいのよ。だからもっと豊かな自然に復活できるわ。」「今回の南部地震で東部分の干潟が20

cm程、低くなったみたいね。干潮のときの陸地が減ったわ。トウネンなど小型のシギの飛来数が減ったみたい。」「少し

コンクリートブロックや砂などを入れて、干潟を元通りにできないものかな。それに干潟の沖にあるアオサギがとまって

いるコンクリートの防波堤、あそこを本格的な鳥の休憩場にできないかな。防波堤のまわりに捨て石を入れて、植物が

生えるような島的な環境にするの。鳥獣保護区という看板がある以上、もっと積極的に自然を復活させて欲しい。」「単

に保護するだけではだめね。それでね、自然のまわりにね、子どもが安心してやってこれるようにサイクリングの道をつ

くるの、武庫川から埋立の新しい渚まで。」東山さんは未来の子どもの遊びにまで心を配る。  さて、本当の豊かさとは

何だろう。経済発展のために、学校のプールの上に産業道路をつくることだろうか。どうせちっぽけな砂浜だからと、コン

クリートで固めることであろうか。もし、甲子園浜が埋め立てられていたら、海岸は工場の敷地になり立入禁止になって

いたかもしれない。かつて、ここにシギチドリが羽を休める干潟があったことなど、遠い昔の不確かな記憶になっていた

かもしれない。